サンクチュアリ週刊ニュース

主に,米国サンクチュアリ週刊ニュースの和訳です.

康賢實オモニム 「アボニムは,凄まじい信仰の人でした」



2017.1.24


マタイ10:7-10
行って,『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい.病人を癒し,死者を生き返らせ,らい病を患っている人を清くし,悪霊を追い払いなさい.ただで受けたのだから,ただで与えなさい.
帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない.旅には袋も二枚の下着も,履物も杖も持って行ってはならない.働く者が食べ物を受けるのは当然である.


御旨の道より


教会は天国生活の訓練場である.


教会に来たければ来なさい.そうでなければ食口に会いなさい.または,他人を伝道しなさい.そうしなければ心霊が沈んでしまう.


教会に入ってくれば心が切なくなるのは,心の割礼を受けるからである.


教会に訪ねてきた客を絶対に冷遇してはならない.


三人以上眠らないで教会を守りなさい.どんな時に,どんな命令が下るか誰も知らないからである.


我々の教会は最高の栄光の立場にいる人と,最悪の立場で世界的な十字架を担う人がいる.故に教会とは互いに助け,互いに導きあうべき千態万象の人物が集まった所である.


統一教会に入ってくる時には歴史的な先祖の恵(功労)をもって入るが,出るときには持って入った恵を置いて出てしまうことを知らねばならない.故に最後まで残って天の祝福を受けて有終の美を飾りなさい.


食口という名詞は時代が変わって世代が滅びても無くならない名詞である.故に真の食口は国家的十字架のみならず,世界的な十字架を越えて行かねば真の食口でない.現在,我々の教会で食口と呼ぶのは世界的な十字架を越える事を認めた上で呼ぶのである.


教会を客観視するな.神様を他の所において私が遠く離れた立場から眺めずに,その中に入っている心持ちを持ちなさい.


教会は我々の家であり,我々の本家である.本家が良くなるには分家がまず良くならなければならない.


教会に朝早くから行きたい心が生じなければならない.


我々食口は教会の看板であり,神様の看板である.


礼拝時間はサタンの鎖を切って神の世界に導いてくるための戦いの時間である.生命を復活させるために誠を尽くす深刻な時間であるので,絶対に礼拝時間を破ってはならない.礼拝時間に怠けると恵を奪われてしまう.


食口という名をもった者は,自分のものという所有観念を超えねばならない.すべてがお父様の名で成されなければならないし,父より再び配分を受けたそのような関係が結ばれなければならない.先生も私の体を自分のものとは考えない.故に命令であれば何でもできるのである.


集会の時には証と報告の時間を沢山持ちなさい.


恵がある所に行けば春の日のようである.新しい運動が芽生える所が春である.


自分の生活をする前に教会の生活を考えなければならない.(公的な血を流すほどの決意で働き,天の忠臣とならなければならない).


私一人を犠牲にして全体が生きることができるとすれば,誰もがその道を取ることを知らねばならないし,そのような人が食口である.


神が勝利の旗を立てて,勝利の栄光を万民に帰してあげることのできる統一教会の青年男女がいるか.


三点が結びあってこそ面積が生じる.二点は線にしかならない.腰の紐を締めようとすればしっかり締めなさい.


これらのみ言は,教会の草創期にアボニムが語られたみ言です.これらのみ言は,私達がいつ読んでも,何度黙想しても,多くの恵と恩賜を与えてくれます.私達は,アボニムが残して下さったこれらのみ言を持ち,それは百科事典のようです.み言を読んで,み言に従うことによって,私達は信仰生活を正しく導くことができます.私は,これらのみ言を何度も読みました.これは信仰の章にあります.


アボニムは,凄まじい信仰の人でした.一度,アボニムは私に「郷里の教会に行って,ある日ある時に説教をしなさい.」と言われました.私は,アボニムのみ言と一つとなって,み言に従うことができず,言いました.「それは,出来ません.既成教会は私達にとても反対しているし,私達のことを教会とさえ考えていません.よって,私がある場所にある時行って,ある方法で語ることを通知することは出来ません.」


アボニムの信仰は,枠や組織や既存によって制約されるものではありません.アボニムご自身から自然に沸き上がるものであって,同じように私達に教えて下さった信仰です.統一教会の教会員が,アボニムの教えに従って実行していたら,今日の教会は,今のような困難な状況にはなっていなかったでしょう.アボニムは,生きた神様を本当に信じ,そのことを同様に私達に教えて下さいました.


イエス様は「求めなさい.そうすれば,与えられる.門を叩きなさい.そうすれば,開かれる.」と言われました.イエス様が,一瞬の躊躇もなく神様が応えて下さることを信じたように,アボニムは,本当に信じました.今日,私達は,アボニムが私達に見せて下さった信仰のモデルに従う必要があります.私達は,求めれば与えられ,探せば見出し,門を叩けば開けてもらえることを信じる必要があります.


アボニムと共に60年以上過ごして来ましたが,アボニムが報告を聞かれる時は,普通にではなく,大きな精誠と献身をもって聞かれました.アボニムが神様のみ言を語たられる時も,とても真剣に,そして精誠と献身をもって語られました.私は,彼と過ごした時に,そのことを見て感じました.


まだ間に合います.アボニムが教えて下さったことを為せば,私達は,彼に認められる位置に立つことができます.


一つの例を示しましょう.開拓伝道に或いは,巡回師として外出した後,私は戻って,アボニムに報告しました.アボニムが食事をされている時に話を始めると,彼はスプーンをお口に入れようとする瞬間に,スプーンを退けて,私の報告に集中されて,そのスプーンは私の報告が終わるまで,そのままでした.アボニムはいつも,好奇心が旺盛でした.「誰が,そして何を語っているのか,彼らは何を言っているのかについて」


今日は,同じ心を持ちましょう.私達が,そのレベルの真剣さと精誠と献身を持って,教会をリードし案内すれば,復活のスパークと火が燃え上がるに違いありません.


確実に前進し,第二のアボニムになりましょう.つまり,私達の為す全てにおいて,彼の代身となりましょう.そのようにすれば,私達は勝利できるはずです.


どうもありがとうございます.



<鷹の目>
手元には,初版の「御旨の道」の二十五刷りがありました.康オモニムが,教会・教会生活の箇所を引用されましたが,その中にも,表現が改められ,或いは削除されている部分がありました.何時,誰の責任で削除したのかは不詳ですが,み言は簡単に改めたり,削除するものではないと考えます.
アボニムのマルスム選集614巻の一部が削除されたことが話題になったと聞いていますが,改竄される前のオリジナルを手にすることが難しいので,全体を細かく比較できませんが,ページ数が大幅に減っています.巻の中でかなりの部分が削除されたことが容易に推測されます.マルスム選集に限らず,み言の書籍の初版は,誤字脱字もあるでしょうが,内容が改竄されないように良く保管する必要があります.特に,アボニムのマルスムは,明らかな誤字脱字以外は,手を付けてはいけないものと考えます.電子データによる文書の保管が一般化されて,修正・加除はいとも簡単な時代になりましたが,そういう今こそ,書籍の保管に注力すべきです.自分や自分達に不都合なことは,誰でも覆い隠したいのでしょうが,何時かはそれらの覆いが取り払われ,全てが明るみに出ると思います.


小生の信仰生活も長くなりましたが,ここに上げられたように生活をしてきたかどうかを振り返えると,自分の不足がよく分かってきます.アボニムは,まず「自己主管」を説かれました.欲望を抑えて,自分を主管しなさいと言われました.天国生活の訓練のベースは,自己主管と堕落性の克服にあると思います.加齢によって,欲望も徐々に減退するようですから,年長者の方が自己主管はし易いかも知れません.しかし,歳と共に堕落性は脱げたでしょうか,皆さんは如何でしょうか.
アボニムから,小レバレンド・ムーンに成りなさいと言われましたが,自身が何処までどの程度まで,アボニムに似ることが出来たかと振り返ると,お寒いものを感じます.しかし,そのように自ら不足さを感じる時,アボニムは私達に,何かを教えて下さっているように感じます.皆さんも,例えば,何かに行き詰った時は,神様とアボニムに決意しながら祈祷しましょう.必ず,何かの光明が得られると思います.


食口という言葉も今は,あまり使われなくなったように感じます.ずっと以前は,教会で寝食を共にしていたから,食口という言葉は自然に発せられていましたが,家庭教会時代になり,ある程度の規模の教会に集まって礼拝などを受けても,その後に食事を共にする機会も減り,食口という言葉も褪せて行きました.米国のTNCPは,今が草創期の様相です.二代王様・王妃様の近くに,数十人が集っています.礼拝や集会の後は,食口が一緒に食事をする習慣が残っています.同じ釜の飯を食べるという昔の共同生活の名残もあります.米国には,教会員名簿もないようです.そういう中で,如何に二大王様・王妃様との心情因縁を結ぶかがとても大切です.


本稿では,アボニムが,康オモニムの報告が始まるや否や,スプーンを止められたことが証されていますが,アボニムは,誰かの報告を聞かれる時は,凄まじい集中力であったという逸話が多々残っています.親は,子供の一言を聞きたいのです.「先生は,君の話を聞くために居るようなものだ」と,何度も言われました.そして,子女の一言を聞き逃しませんでした.アボニムは,一言から,深層心理を一瞬に見抜かれます.そして,話が深まり,どんどん広がっていきます.アボニムとの少ない対話からもそのことが今も鮮明に思い出されます.

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