サンクチュアリ週刊ニュース

主に,米国サンクチュアリ週刊ニュースの和訳です.

何故神様は一人の男性か 




2019.5.7


私の兄弟達,自分は信仰をもっている言う者が居ても,行いが伴わなければ,何の役に立つでしょうか.もし,兄弟あるいは姉妹が,着る物もなく,その日の食べ物にも事欠いている時,あなた方の誰かが,彼らに,「安心して行きなさい.温まりなさい.満腹するまで食べなさい」と言うだけで,体に必要な物を何一つ与えないなら,何の役に立つでしょう.信仰もこれと同じです.行いが伴わないなら,信仰はそれだけでは死んだものです.
しかし,「あなたには信仰があり,私には行いがある」と言う人が居るかも知れません.行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい.そうすれば,私は行いよって,自分の信仰を見せましょう.あなたは「神は唯一だ」と信じている.結構な事だ.悪霊どももそう信じて,慄いています.ああ,愚かな者よ,行いの伴わない信仰が役に立たない,と言うことを知りたいのか.
神が私達の父アブラハムを義とされたのは,息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか.アブラハムの信仰がその行いと共に働き,信仰が行いによって完成された事が,これで分かるでしょう.
「アブラハムは神を信じた.それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し,彼は神の友と呼ばれたのです.これであなた方も分かるように,人は行いによって義とされるのであって,信仰だけによるのではありません.
同様に,娼婦ラハブも,あの使いの者達を家に迎え入れ,別の道から送り出してやるという行いによって,義とされたではありませんか.魂のない肉体が死んだものであるように,行いを伴わない信仰は死んだものです.….ヤコブ2:14-26


アダムは,相続権,父母権,そして王権を持つことになっていました.彼は,神様の愛を中心に,安着するはずでした.安着の位置は,王権が始まる位置であり,父母の位置でした.….文鮮明, 三大主体思想と真の父母様の宣言


聖日礼拝において,亨進ニムは,弾丸の王冠を被ることにどのように苦労されたかを説明されました.一度被ると,頂部が全部彼の方に寄ってきました.「それは,VICEドキュメンタリーの男子」と言われました.彼は,私達は坊主でなければならないと気付きました.イエス様は,私達を王とし,聖職者としました.それは,「城の教義」または,あなたの家への侵入者に対する防護権の由来です.


彼は,イエス様の使徒ヤコブについて語りました.彼は,最初の教会の王(教皇)となりました.使徒行伝21:17-26では,使徒パウロがヤコブの所を訪ねています.


マルチン・ルターは,ヤコブの「行いの伴わない信仰の言葉」を憎みました.そして,彼の聖書から,ヤコブ書を破りました.「一度救われた者は,いつも救われる」という彼の信仰と矛盾していたからです.上記の廃版となったアボニムの書籍において論じたように,彼は,クリスチャンは「罪に勇敢で」あるべきだと言われました.



2019.5.5, 文亨進師 聖日礼拝



でも,ヤコブは,私達には責任があることを警告しました.聖霊体験は,悔い改めに導きます.自由と共に責任が生じます.米国の建国の父達は,道徳的な人のみが,自由になれると言いました.アダムとエバは罪がなくても,神様の戒めに従わなかった過ちのために,園から追放されました.詩編9:3に,「私は,神様から与えられた法を喜ぶ*1」とあります.


ヤコブは,孤児とやもめの世話をする必要があると警告しました.彼は,人々は神聖であり,婚外性交を自制することを教えました.皆さんが,罪を繰り返すなら,神様の御国には入れません.



イエス様ご自身は,肉体労働者の大工でした.山上の垂訓において,彼は責任について語りました.ヤコブ書は,血統と自由と責任の重要性を認めています.責任がないと,快楽主義や社会主義,貧困,更には,虐殺に繋がります.プロテスタントは倫理を果たします.


アメリカの植民地においても,法律はレビ記から直接引用されていました.もし,あなたの配偶者が,他の誰かと寝ていたら,両者が殺されると言うものでした.


信仰は,救済の始まりですが,私達は他の人達に仕え,羊飼いとして,継続して率いることを学ぶ必要があります.これは,行いの救済ではありませんが,皆さんをもっとキリストに似る者としてくれます.神様が完全なように,私達も完全になるには,努力が必要です.訓練は,私達の信仰と実践の決定的な部分です.


パウロは,ミステリーについて語っています.それは,霊知信仰や過激な,また,無責任な「信仰義認,聖書のみ」の教義と誤解されることがあります.韓国の最近の教会には,独身者達のデートを許す教会もあります.それらは,しばしば婚外性交を誘導します.最近のデート文化は,婚外性交の文化に成りつつあります.


聖書の神様は,葬られました.偽りの教会は,罪の結果の罪責感を覆いかぶせようとしましたが,成功しませんでした.自由とパワーは,より大きい責任がある所から生まれます.皆さんは,他の人の犠牲になるべきです.聖霊は,私達がもっとキリストに,そして彼のイメージ以上に成熟した子女に似ることを促します.


神様は,物質世界と肉体を悪のために創られませんでした.彼は「良かった」と言われました.神様の地上天国は,神聖で,純粋で,良いものです.それは,結婚の制度が創られた理由です.


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神様は,一人の男性ですか,一人の女性ですか,或いは,男性・女性の特性で認識されない性のない力ですか.社会は,概念の範囲を提供しますが,宗教書は,神様のこの不変の特質について,何を語らなければなりませんか.以下のビデオにおいて,デニス・プラッガー氏が,腹の立つような考えの回答を与えています.




*1 いと高き神よ,私は喜び,誇り,御名を褒め歌おう.



<鷹の目>
亨進ニムがヤコブ書を多方面から,解説されました.ヤコブ書は元々,信仰的な示唆に富む内容が記されています.ややもすると,世俗に流されやすい私達への,色々な警告が書かれており,今も生きた書簡と言えます.第3章に「舌は火である.不義の世界である」「舌を制(御)する人はいない」という行があります.言葉は災いの元です.嘗て,郭錠煥氏が,ある祝福の会場で,挨拶をされた時,「祝福家庭は,言葉に注意しなければなりません.」と言われていたことを思い出します.無意識に発した言葉が,聞く人の心に突き刺さっていることもあります.言葉は慎重に選ぶべきでしょう.


神様が男性格主体であることは,今更言うまでもないと思いますが,家庭連合は,父の神,母の神などと言っているようです.本陽性と本陰性の二性性相の代わりに,父の神,母の神が描かれた図も提示されているようです.曖昧な言葉や造語を使って,アボニムの御言葉を変えることは,厳に慎まなければならないし,そのような事案を,我々は看過してはなりません.アボニムの原罪の有無を論じることなど,食口にはナンセンスです.統一Gは邪教に陥ってはいけません.アボニムの血と汗と涙の犠牲の代価で築かれた伝統を守りましょう.

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