サンクチュアリ週刊ニュース

主に,米国サンクチュアリ週刊ニュースの和訳です.

康賢實オモニム「ヨハネ伝に記されたイエス様の最期の祈り」


2017.8.4



聖書拝読: ヨハネ17:3-5


永遠の命とは,唯一の真の神であられるあなたと,あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知る事です.私は,行うようにとあなたが与えて下さった業を成し遂げて,地上であなたの栄光を現しました.父よ,今,御前で私に栄光を与えて下さい.世界が造られる前に,私が御許で持っていたあの栄光を.


皆さん,おはようございます.


今日は,ヨハネ17章に記されているイエス様の最期の祈祷について語りたいと思います.当時,弟子達,ユダヤの指導者達,ファリサイ派やサドカイ派の人達が,イエス様に対して,霊界のことを多く聞いていました.イエス様は,永遠の命とは,神様と,神様が遣わされたキリストを知る事と,神様とキリストを信じる事であると応えられました.


イエス様は,十字架に向かっておられました.彼は,多くの反対の中で救いの道を拓く事がとても難しく,多くの苦難を受けられました.そして,イエス様は,神様が彼に,全ての人達を支配する権能を与えられたことを祈りました.それは,第2節に記されています.


あなたは子に全ての人を支配する権能をお与えになりました.そのために,子はあなたから委ねられた人全てに,永遠の命を与えることが出来るのです.


十字架に向かわれる際,イエス様は,道が拓かれ,神様によって彼に委ねられた人々は互いに,救われ,永遠の命を受けられると,神様に祈られました.


第5節に祈りがあります.


父よ,今,御前で私に栄光を与えて下さい.世界が造られる前に,私が御許で持っていたあの栄光を.


彼は,涙を流してこの祈りを献げました.


私の人生の中で,何かについて祈る時がありました.何かの問題で,私は,神様の助けが必要でした.私は,聖書を開いて,イエス様の最期の祈祷を読みました.その時,私は,これらの事に対して,心の底から,涙ながらに,精誠をもって祈る必要があると気付きました.


イエス様は,何処にいらしても,人々に証をし,神様を讃え,御名は聖なるものであると伝道されました.イエス様が祈られた時は,いつも,御自身を中心とはしないで,寧ろ,「神様,あなたは,これらの人達を私に委ねられました.だから,私を彼らと共に居させて下さい.最期まで,彼らと共に残させて下さい.彼らが救いと永遠の命の道を歩むことが出来るまで」と祈られたことを知っています.


第6節において,イエス様は,言われています.


世から選び出して私に与えて下さった人々に,私は御名を現しました.彼らはあなたのものでしたが,あなたは私に与えて下さいました.彼らは,御言葉を守りました.


これは,彼がされた事です.彼は,出会った神様の御名を,彼の言葉を聞く人々に現わされました.彼は,全人類に対して,神様から責任が与えられ,彼は,彼らに救いの道を拓くことが出来ることを,とても待望されたからです.


私達は,ヨハネ17章において,イエス様が何と明るい霊を持たれていたか,そして,霊的な圏内において,彼は人々に霊的に証をされたかを知ることができます.この祈りにおいて,イエス様は,「私は,あなたが行うように言われた業を果たしました.だから,どうか,これらの人達の一人も,サタンに渡すことなく,寧ろ,救いの道を行かせて下さい.」と言われました.


第9節において,彼は言われました.


彼らの為にお願いします.世の為ではなく,私に与えて下さった人々の為にお願いします.彼らはあなたのものだからです.


これは,一人一人が互いに,救いを受けられるようにという,神様への信じがたい懇切な願いです.


第10節は,


私のものは全てあなたのもの,あなたのものは私のものです.私は彼らによって栄光を受けました.


これらの御言葉は,イエス様が,正に十字架に向かわれることを語っておられました.


第11節は,


私は,もはや世にはいません.彼らは世に残りますが,私は御許に参ります.聖なる父よ,私に与えて下さった御名によって,彼らを守って下さい.私達のように,彼らも一つとなる為です.


私は,神様と一体化できるように祈りました.神様が私に宿り,私は神様と一つになれるように祈りました.今も,私は,毎日,アボニムが私に宿り,私は,彼の中にあって,私達は,一体化出来ることを祈ります.私は,また,イエス様が来られて,私に宿り,私が彼に宿り,私達は,一体の理想を立てる事ができるように祈ります.私が,イエス様にこのように祈ると,私は,しばしば,彼の地上における最期の祈祷を思い出します.


この祈祷において,イエス様は,世界の為に祈られています.例え,彼が地上から去ったとしても,神様が,地上に残る人達を守って下さるように祈られました.私も,イエス様が私の中におられ,アボニムが私の中におられ,私達は,ここに,理想世界を立てることができるように祈ります.


イエス様は,地上に残る人達が,悪から守られ,彼らが共に,天の御国に行ける事を祈られました.イエス様が,ここで現わされた御心は,彼らへの信じられない程の誠意と慈しみでした.イエス様は,息を引き取るまで,人々に神様の御名を教え,神様に救いの道を拓いて下さるように頼まれました.


アボニムの御言葉・説教選集の最初の10巻において,私達は,彼のイエス様への信じ難き愛を知ります.アボニムよりもイエス様を愛した方は,世界にいないと思います.アボニムが,イエス様について語られ,或いは,祈られた時,涙を沢山流されて,彼の着ておられた上着は,びしょ濡れになりました.アボニムは,そのようにイエス様をとても愛されました.私は,アボニムが,イエス様をどれ程愛されたかを,直に見ました.彼は,確実に,世界でイエス様を最も愛された方でした.


分派を立てた人達は言います.「統一教会の皆さんは,聖書を読みますか.イエス様を信じますか.」しかし,私は,アボニムがどれぐらい本当にイエス様を愛されたかを知っています.そして,私は,アボニムが,その事を語られるのを長く待ちました.


1953年のある日,アボニムは言われました.「あなた達は,立てられた分派の(礼拝を行う)信徒が,あの山の上で,復興会をしていることを知っています.行って,彼らに合流しなさい.」私達8人が,アボニムと共に,その復興会に合流するために行きました.私達は,列車に乗って,復興会が行われている山の近くの金泉駅(慶北道)で,下車しました.アボニムと共に8人が訪ねました.北韓からアボニムに従って来た玉ハルモニ(玉世賢)と金ハルモニも来られました.カトリックの神父も一緒でした.私達8人は,復興会に行きました.


復興会を行った羅氏は,実際に霊的に開かれた人でした.私達の到着した最初の夕方,彼は,立ち上がって,言いました.「ここには,皆さんの霊を盗もうとする霊的な泥棒がいます.」「聖書には,終わりの日には,反キリストが現れ,彼らは,メシアがここに居る,あそこに居ると言いますが,これらの場所に行ってはなりません.しかし,今日,そういう人達の一人が,皆さんの霊を盗むためにここに来ています.だから,私達は,今日ここで礼拝するので,注意する必要があります.」


実際には,私達7人が直接,復興会に行き,アボニムは,部屋におられました.部屋で,ご自分の位置を保っておられました.復興会の若いスタッフが,何か障害物を置いて,私達を殆ど,打ち倒そうとしましたが,私達は逃げ出せました.


アボニムは,近くの宿におられました.彼は,離れていて,私達7人が実際に復興会に行きました.私達が戻ると,アボニムは,「何かあったの」と聞かれました.私達は,「彼は,霊的な泥棒が居る,そして,私達は注意しなければならないと言いました.」と報告しました.アボニムは,笑って言われました.「では,彼は,私のことを聞いたと思います.」私達は,歌を歌い,アボニムが祈祷されました.「神様,私が何処に行っても,何故,このような混乱と争いが生じますか.私は,あなたに約束をしました.だから,私は約束を守ることを誓い,この国のここから始まる勝利が,世界中に広がり,永遠に拡がることを祈ります.」


そこを離れる時,アボニムは,私達は,天軍に任命されたと言われました.そして,この国の為に命を懸けて,日本の植民地主義者達と戦った独立軍のように,私達は,国の為に,世界の為に,そして,神様の御旨の為に,命を懸ける必要があると言われました.


私は,アボニムが,拳を握り緊めて,「我々は,神様の軍隊です.我々は,日本に対して,韓国独立の為に,一線で命を懸けて闘った独立の闘士達のように,一線で命を懸ける必要が有ります.」と言われた日を記憶しています.彼は,私達を励まし,そのように力を下さいました.


アボニムは,狂ったように伝道をされました.最初から最後まで,彼の生涯の全ては,伝道と人々の魂の救済と霊の救いだったことを覚えています.アボニムは,接触した全ての人達の魂を救うことが,彼の責任であると考えられました.


一人か二人が,アボニムを訪ねた時,彼は,夜を徹して語られました.通常の話ではなかったです.彼は,語る神様の御言に夢中でした.訪ねた人達を救うのに,どうしようもなかったことを,私は見ました.彼が,伝道に完全に集中し,完全に夢中になっておられるのを,私は見ました.


その復興会において,羅牧師は,アボニムに反対することを多く語り,そこの人達の前で,アボニムのことを沢山批判しました.彼は,「自分達の事を主と呼ぶ人達がいます.この周りには,全ての異端が有ります.そして今夜,ここに居ることを知っています.」と言いました.そして,彼は,実際にアボニムのことを語り,とても多く批判しました.


後に,アボニムは,言われました.「彼は,誰ですか.彼も,神様の子女であり,神様の御許に戻る必要があります.彼のスピーチを聞くために,例え数千人の人達が集まっても,問題になりません.彼は,神様の子女であり,救いを受ける必要があります.」


アボニムは,しばしば,私達を励ましてくれました.叱ることで私達を激励して下さいました.そして,私達は,人々を救い,彼らに永遠の命を与えるために,もっと真剣になる必要がありました.


当時,多くの霊的な現象が起こりました.ある日,何十人かの人達が,教会に来ました.私達は,彼らに尋ねました.「何かありましたか.皆さんは,何故来ましたか.」「私達は,教会に行きたいと思って,出発しましたが,何となくここに来ました.私達も,どうなったのか分かりません.どのようにここに来たのか分かりません.」と彼らは応えました.そのような霊的な現象が起こりました.


これは,私達が,伝道の為に霊界を動員できる時であったのです.人々は,どうしようもなく神様の御言を聞きたくなり,当時の教会長劉孝元氏は,人々が余りにも自爆自棄なのに驚きました.彼は「アボニムが,最前線に立って,戦っておられるから,霊界も戦っています.霊界は,この環境で静かにしてはいられません.」と言われました.


今日,私達は,この精神と心情を受け継ぐ必要があります.そして,私達も,伝道に夢中になりましょう.私達が会う人達の魂に責任を持ちましょう.彼ら全員を神様の御許に導き,神様の地上天国を実現しましょう.


どうも,ありがとうございます.


ビデオ: 

30:00-1:07:54



<鷹の目>
渡米された康賢實先生,後の康オモニムの一連の講話は,2017.9.26が最後のようでした.本稿は,終盤の深い内容になります.


さて,ヨハネ伝に記されたイエス様の最期の祈祷は,とりなしの祈りとも,大祭司の祈りとも言われている内容です.イエス様が,いよいよ十字架に向かわれる直前に,神様に,残された人々を守って下さるように祈られました.他の福音書では,ゲッセマネの園における祈祷が,イエス様の最期の祈祷のように記されていますが,ヨハネ伝には,趣の異なる祈祷が,詳細に記されています.この祈祷内容は,イエス様を神様の子と信じ,イエス様の御名によって救われると言うキリスト教の福音が確立した後の構成になっています.そして,神様とイエス様の(神人)一体の概念が導入されています.従って,本福音書の著者は,イエス様の愛弟子であったヨハネではなく,後に,エペソ教会などを指導した長老ヨハネではないかと推測されています.


康オモニムは,クリスチャンが,イエス様をメシアと固く信じるように,今日生きる私達が,アボニムを再臨のメシアと深く信じることを暗に訴えておられます.霊的な羅牧師が,アボニムのことを色々批判されたという行は,正にその反証と言えます.アボニムの御言,「彼は,神様の子女であり,救いを受ける必要があります.」に全てが,凝縮されています.つまり,イエス様による救いの限界を語られると共に,御自身による新しい本来の救いの訪れを証されています.篤実なクリスチャンであればある程,イエス様による救いの限界を自覚しています.そして,ひたすら,イエス様ご自身の再臨を待ち望み,救いの完結を期待しているのです.このような,非科学的な,荒唐無稽な教義に固執している限り,再臨のメシアを知ることは出来ないでしょう.


結論は,やはり,伝道です.アボニムは,どんな人に出会っても,初対面の人に,血統転換の御言を語っておられたようです.相手が理解するかどうかは関係ないように,語られたようです.そして,聞かされた方は,それなりの反応を示し,多くの人達がアボニムのペースに巻き込まれて行ったようです.
私達が,アボニムに出会ったのも,誰かに伝道されたからでした.小生も若い時は,路傍で原理をストレートに語るようなことをしました.時を経ても,何時になっても,私達は,誰かを伝道していく宿命にあります.伝える道は何でしょうか.アボニム,即ちメシアに繋がる道であることは言うまでもありません.女性の(自称)メシアではありません.

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