サンクチュアリ週刊ニュース

主に,米国サンクチュアリ週刊ニュースの和訳です.

康賢實オモニム「神様の御旨」



2017.7.18


皆さん,おはようございます.


今日は,アボニムの初期から今日に至るまでの御言集「神様の御旨=御旨の道=뜻길」を拝読します.


御旨は,私が居る前からあった.神が御旨の始まりであり,御旨の内容であり,御旨の目的である.御旨は我々の幸福の要素であり,我々の誇りであり,我々の権威であり,我々の知識である.人は生まれてそのまま死んでいけるけれども,御旨は,そのままで消え去る事はできない.必ず実を結び,結末をつけなければならない.


先生は,御旨に対しては,一歩も譲らない.御旨一つを成す為には,如何なる犠牲があっても,そこには避ける道がない.


我々は,行くべき道を残しておいて,今日に満足する者とならずに,この世の未練を断ち切る事のできる,より大きい御旨をもって新しい歴史を開拓して行こう.


例え体は,現実の中に生きているとしても,生活感情と理想と全ての因縁は,カナンの理想郷を慕いつつ,その世界に住まなければならない.


我々は,最低の基準で苦痛を受けながらも,サタン世界の最高の栄光を嘲笑し,踏み越えて行ける心情基準とならねばならない.


天国に行ける人は,この世の最高の栄光の位置を与えられても,御旨を捨てる事はできない,という一片丹心の心情を所有した者である.


先生も身悶えしながらこの道を行く.いわんやあなた達が精誠を尽くさずにおれようか.


復帰は安定した立場においては考えられない.打たれて,また打たれながらも耐え忍ぶ立場において残らなければ,蕩減条件が立てなれないのである.


地獄の底を貫きなさい.


打つ事によっては征服する事はできない.打って復帰するならば,また打たれなければならない.打たれながら復帰していく事によってのみ,結局は負けて勝つ事になる.これが最後の作戦法となる.


「何を食べようか,着ようか,飲もうかについて心配するな」というイエス様の御言を顧みる時が今である.神の国とその義よりも,自分の生活をより心配すれば滅びる.その国が無ければ,個人,家庭,社会,民族,全てが蹂躙を受ける.国のない故郷がある筈がない.


神の苦しみ(心配)を避けて,自己の安楽を求める者は必要ない.必要のない数千人よりも,必要な一人がもっと大切である.


我々は,昨日まで全宗教が行った事のない未開の道を行くのである.


モーセを中心として十二支派,七十長老が居て,六十万大衆を動かした如く,復帰は組織の緻密性を無視する事はできない.


天の摂理的な「プログラム」は,根源と上から合わせて来るのである.それ故に知らない道を行く我々は,命令する方に従って従順になるのが近道である.


完全なる主体(+)が生ずれば,完全なる対象(-)が生ずる.しかし,対象が生ずる前に,また異なった他の主体があれば,(対象は)破壊される.


モーセはイスラエル民族の半分を失ったとしても,鞭打ってカナンに入らなければならなかった.打つべきものを打たなかったが故に,モーセも,イスラエル民族も,摂理の時期も皆失ってしまったのである.


神は一時と一人の方と一つの仕事のために,六千年間御業を為して来られた.故に,この一人の方が為さる仕事と一時を裏切る者は,六千年を裏切る者であり,反対に忠誠でもって迎える者は,六千年の不変の忠臣として認定される.忠臣は六千年の恵沢を一身に浴びるであろうし,裏切者は累積された罰を一身に受けるのである.


あなたの口で一旦悪いと言っていながら,或る日突然変わって,良いと言う日には,(あなたは)完全に屈服してしまうであろう.


堕落人間の願いは,①神側に戻って行く事,②天地を自分のものとして取り戻す事,③敵サタンに対して恨みを晴らす事


モーセは御言の十字架,イエス様は肉体の十字架,再臨主は心情(愛)の十字架.


先生は,皆さんよりも一段階前に立って仕事をやって行くので,先生のやる事に関心を持ちなさい.それは,皆さんの次の生活の目標であるからである.


蕩減復帰の道は,他人の援助なく,一人で行くのが原則である.後援してあげるなら,その人の生命までも責任を持たねばならない.


皆さんは難事にぶつかれば百遍も変わる事ができるが,先生は決して変わる事ができない.例え,先生の行く道に死が待ち構えていたとしても,行かなければならない運命である.その理由は,もし,行かなくて受ける天宙的に潜んでいる苦痛の方が,死を乗り越えて行く苦痛よりも,もっと大きい事を余りにもよく知っているからである.


同じ立場においては,神は有能な者を選んで用いる.その理由は,サタンと戦って勝利しなければならない御旨があるからである.


神が自ら僕の立場で涙を流し,神が自ら子女の立場で涙を流し,神が自ら父母の立場で涙を流しておられる事情を知って,その恨みを解くために至誠を尽くしなさい.


御旨の前で躊躇するとサタンが侵入する.御旨を知って躊躇する者となってはいけない.


神は天理原則しか知らないし,先生は御旨しか知らない人である.


古い衣を脱がずして,新しい衣を着る事ができないように,古い観念で新しい世界を見つめる事はできない.


深く植えれば植える程遅く芽生えるものである.あまり時を急ぐな.六千年間植えておいた復帰歴史が一日にして成されようか.


統一の理念は,千万人をアベルとして対して上げる時に成就される.


神の御旨のために苦労をしながら死ぬ時には,生きている間に成せなかった御旨を後孫を通して果たして下さい,という祈りをもって死んでいく事によって,初めて再臨して協助することができる.


カナン福地は民族的福地でなく,私の福地であるという信念をもって行かなければならない.モーセが死んでも,族長が死んでも,私は行くという信念をもって行かなければならない.


御旨の道は,神を背負って,果てしなく遠い目的地に向かって,首まで漬かる水の中を渡って行くのと同じである.ここで私が溺れれば,神の御旨は覆ってしまう.考えてごらんなさい.


イエス様の「我が思いではなく,父の御意のままに成さしめて下さい」という祈りの如く,私の思いと父の御旨とが異なる事はあり得ない.


神を呼んで,三度あっと驚くことのできることを提示すれば,神はどうすることもできず,必ず自分の神となる.


神と私は好き嫌いが同じである.故に人に良くする事,それが即ち神に良くする事である.それが善である.


今まで悪の歴史と悪の世界であったが故に,善が追われて,屈辱を受ける歴史であった.これが聖人,預言者の歩んだ道ではなかったか.我々も御旨のために追われ,幾度も屈辱を受け,涙を流さなければ,霊界に行って,彼らの前に恥ずかしくない堂々たる者となる事はできない.


旧約の時代は,望みを見つめつつ実践して来た時代であり,新約時代は,信仰を実践して来た時代である.今後,成約時代は,愛を求めて実践して行く時である.


成約時代は,愛を求めて実践して行く時代です.


どうも,ありがとうございます.


https://www.youtube.com/watch?v=EzA-RhGWlyU
25:04-49:18



<鷹の目>
本稿において,康オモニムは,御旨の道の最初にまとめられている御旨の箇所を拝読されました.皆さんは,どの御言に共感しますか.小生の脳裏に焼き付いて,一番印象に残っている御言は,「皆さんは難事にぶつかれば百遍も変わる事ができるが,先生は決して変わる事ができない.例え,先生の行く道に死が待ち構えていたとしても,行かなければならない運命である.」私達には,アボニムの歩まれた内実はよく分かりませんが,この御言の通りに歩まれたのがアボニムであったと推察します.アボニムが,不変・不倒・不屈であっても,付いて行く私達が,余りにも幼く,弱く,拙いが故に,アボニムの願う基準を満たす事が出来なかったと,少なくとも,小生は自戒します.例えば,90年代以降,訪韓して,アボニムの御言を直接頂く機会がありました.その時の数時間は,別世界にいる様でした.睡眠時間が不足していても,その時は過ごせるのです.所が,日本に帰国すると,霊肉の疲れが一気に出て,酷い風を引いたりしていました.アボニムを拝しながら,我彼の差異の大きさを実感していました.


今は,アボニムから直接頂いた御言の数々が,正しく遺言となり,私達の記憶に留まっています.私達は,アボニムの遺言を決して,埋没させてはならないのです.アボニムは,私達に,一生かかっても読み切れない程多くの御言を残して下さいました.その一字一句を守って行くのが,私達の責務です.家庭連合は,その責務を放棄し,自分達の都合の良いように,御言をすり替えて,自分達に不都合な箇所は,削除しています.亨進ニムは,名節などの重要な祝祭典の時には,必ず,天聖経[黒本]に記された御言を食口に代読して貰っています.これはオーソドックスですが,とても重要な事です.アボニムが指定された八大教材・教本の御言を一言一句変えないで,継承して行くことが重要です.


2018年11月頃,聖書協会共同訳という聖書が刊行されました.1987年9月に,新共同訳の聖書が発刊されて以来の事です.それ以前は,1955年の口語訳改訳版が使われていました.もっと古くは,1887年と1917年に文語訳の聖書とその改訂があったと伝えられています.和訳の原理講論に引用されている聖書は,1955年の改訳版が使われていると思います.聖書の訳が,時代と共に少しずつ変わっていますが,聖句の加除はない筈です.共同訳が発刊された時は,続編,所謂,外典というものが加わりました.外典は,それまでは,プロテスタントでは,聖書に含めていなかった内容です.エステル記やエズラ記は,ラテン語とギリシャ語をそれぞれ,併記してあります.これらの3編を比較すると,確かに読みやすくはなっていますが,文意が少しずつ変わっているようにも感じます.


翻訳の問題はとても深刻です.翻訳者によって,文意が正確に伝わらない事は,多々あると思われます.原理講論を和訳された時に,韓国語特有の表現を日本語式に変更した所が,散見されます.今,有志が,原理講論の原文に忠実な和訳を試行しているようです.何れ,その新和訳版が登場すると思います.その頃には,原理講論の改訂版が世に問われているかも知れません.私達は,今後も,不穏な動きがないように,御言を管理して行く必要があります.そして,誰かが意図をもって,故意に埋没させようとしているアボニムの晩年の御言も,忠実に発刊し保管する必要があります.



原文
https://christkingdomgospel.org/wp-content/uploads/2017/12/2017-07-18_Reading-from_The-Will-of-God_Hyun-Shil-Kang.pdf

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